日本の学会による鈴木梅太郎の悲劇
最終更新: 2月10日

今回は、日本人の偉大な業績を残した二人の研究者を参考資料として紹介します。皆様もよくご存じだと思いますが今一度考察ください。
オリザニンを発見した鈴木梅太郎のプロフィールを以下に紹介します。以前は、緒方正規や森鴎外の対立とか農芸化学出身で東大医学部の学閥により反対された、との記述が多くみられましたが、最近はその部分をうまく隠した記述が多くなっています。
鈴木梅太郎は、「理化学研究所」の設立者の1人としても知られています。1889年に東京農林学校(現東京大学農学部)に入学、1893年総代で卒業。同大学院を経て、1901年ベルリン大学へ留学。エミール・フィッシャー教授のもとで 、タンパク質やアミノ酸の分析について学んだ。明治43年(1910年)、世界で初めて、梅太郎は米ぬかから脚気防止に有効な成分を発見し、「オリザニン(ビタミンB1)」と名付け、脚気の治療に大きく貢献しました。
しかし、当時、脚気の原因と治療法を巡って陸軍と海軍が対立していました。
海軍 陸軍
食事説 脚気菌説
高木兼寛 東大衛生学緒方正規
東大内科教授青山胤通
陸軍軍医総監石黒忠悳
森村太郎(森鴎外)
海軍内の「脚気」の克服
日露戦役で25万人の脚気患者、3万人の脚気死亡者を出しました。
1885年、翌年東大衛生学教授となる緒方正規は脚気の原因、脚気菌を発見したと報告しました。しかし、北里柴三郎は89年に「緒方氏の脚気バチルレン説を読む」と題する論文で、脚気菌説を否定しました。
1911年東大農芸化学の鈴木梅太郎は米糠から抗脚気因子としてのオリザニン(ビタミンB1)の抽出を報告しました。しかし、当時は病原体原因説が根強く、また将来性がある緒方正規が病原菌説であり、一方、鈴木梅太郎が農芸化学出身であったため、医学界はこの功績を認めることはありませんでした。その結果、陸軍は海軍の脚気駆逐の実績を無視したので、夥しい兵士の命が奪われる結果になりました。日清戦争の戦死者は約5000人だが、約1万2000人が脚気による死亡。
鈴木は、翌1911年(明治44年)1月には東京化学会誌に論文を発表し、その中で糠に含まれる有効成分(後にオリザニンと命名)が動物の生存に必要不可欠の新しい栄養素であることを示し、後にビタミンとして認識されることになる概念を打ち出しました。鈴木は、同年には陸軍の脚気の原因がオリザニンの欠乏症であることを報告しましたが、この発見は日本の医学界から黙殺される結果となりました。鈴木の発見から1年後、ポーランドの医学者カシミール・フランクが、米糠から脚気に有用な成分の抽出に成功し、これを「ビタミン」と名付けました。鈴木の研究は、日本の学会により成果を奪われることになりました。