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「研究成果に対する問題」三回目 ②「ここでも対立が」

北里柴三郎のプロフィールを紹介します。

こちらもよくご存じと思いますが参照ください。


北里は世界初、破傷風菌の純粋培養に成功。北里はさらに、

破傷風の治療として「血清療法」という革新的な方法を開

発します。およそ50年後に抗生物質が使用されるようにな

るまで、多くの感染症に血清療法が行われ、死亡率を激減

させました。ちなみに、破傷風には現在でも北里の開発し

た血清療法を使っています。


・・・以下引用


忘恩の輩? 北里

 北里はコッホ四天王の一人に数えられ、世界中で争奪戦が

始まります。イギリスは、細菌研究所を設立し北里を所長に

迎えようと働きかけ、アメリカは、年額40万円(現在の価値

で約40憶円)の研究費と年額4万円(約4億円)の報酬を提示し

ました。しかし、北里は科学後進国である日本の科学推進、

国民の健康増進のためにすべての誘いを断り、日本に帰国

します。帰国の際、ドイツ皇帝は明治天皇に対し北里を絶

賛するメッセージを送り、北里にはドイツ人以外には与え

たことのない「プロフェッサー(大博士)」の称号を贈りま

した。こうして日本に帰ってきた北里ですが、当時日本で

は医学研究施設は東大にしかなく、留学から戻った内務省

では研究が出来ませんでした。しかし、この世界的な研究

者の受け入れを東大は完全に拒否します。実は、北里は留

学直前に緒方正規(当時東大医学部講師) から細菌の扱い

方を習いました。つまり、緒方に弟子入りしたのです。

この緒方は北里が留学したその年に「脚気菌」を発見した

と発表しました(当時日本では年間3万人が脚気で死亡する

という深刻な状況でした)。留学中の北里は、緒方の発見し

た「脚気菌」について実験を行い「脚気とは無関係である」

という論文を発表します。脚気はビタミンB1の不足で起こ

る病気なので北里の発表の方が正しいのですが、弟子であ

る北里が師である緒方に逆らったのですから、東大では忘

恩の輩として非難の嵐が吹き荒れました。森鴎外も北里を

激しく非難する論文を発表しています(東大の脚気菌派の人

々は、この後も「脚気薗」説を主張し続け、日清・日露戦

争では脚気によって3万人を超える陸軍兵士を死亡させた上、

脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学

部教授の鈴木梅太郎を散々批判し、彼のノーベル賞受賞の

チャンスをもつぶすことになります)。内務省は、このまま

では研究の道を経たれた北里が国外に去ってしまうと、感

染症研究所の設立計画を閣議に提出しますが、廃案にされ

てしまいます。そこで内務省はOBを介し福澤諭吉に助けを

求めました。福澤諭吉は、すぐれた学者を擁しながらこれ

を無為に置くのは国家の恥だと、自分の所有地を提供し私

財を投じて研究所を建設してしまいます。北里が帰国した

1982年暮れのことです。福沢の友人、森村市左衛門(TOTO、

INAX、日本碍子などの創始者)が研究設備や機器の購入代

金を寄付しました。こうして日本車初の伝染病研究所は民

間の力によってスタートし、やがて、コッホ研究所、パス

ツール研究所と並んで、世界3大研究所の一つと称される

ようになるのです。


ノーベル賞を逃す


 北里の伝染病研究所からは、27歳で赤痢菌を発見した志

賀潔、梅毒の特効薬を発見した秦佐八郎、さらに野口英世

ら優秀な人材を次々と輩出します。北里自身も、1894年、

ペストが流行している香港に内務省から派遣され、到着2

日後にはペスト菌を発見してイギリスの雑誌に発表、コッ

ホの追試によって間違いなくペスト菌と確認されました。

東大も内科教授青山を派遣しましたが、彼はペストに感染

して命からがら日本に戻って来ます。ペストは黒死病とも

いい、中世ヨーロッパでは大流行により総人口の約半数を

死滅させたとされる恐ろしい病気です。この様な歴史があ

ったので、欧米各国はペストを大変恐れ原因菌の発見に全

力を挙げていました。ですから、北里のペスト菌発見とい

う業績を、世界各国は絶賛します。しかし、日本では北里

は「忘恩の輩」です。北里の発見したのはペスト菌ではな

いと非難する論文が科学的証拠も無しに次々と発表されま

した。森鵬外もその一人でした。こうして北里が日本で散

々叩かれている最中の1901年、科学界にビッグ・イベン

トが誕生します。ノーベル賞です。欧米では国を挙げての

獲得運動に走り、コッホの弟子であるベーリングが第一回

のノーベル医学生理学賞を獲得します。受賞理由は、「ジ

フテリア血清療法の開発」。血清療法は医学に革命をもた

らした治療法であり、ノーベル賞受賞は当然ですが、ベー

リングの研究は北里の破傷風研究の二番煎じに過ぎません。

しかし、ベーリングにはドイツの国を挙げての応援があっ

たのに対し、北里は国を挙げて足を引っ張られていたとい

う決定的な違いがありました。日本はこうして、ノーベル

賞の最初のページに日本人の名前を残すという栄誉を自ら

の手で逃してしまったのです。1914年、北里の伝染病研

究所は突然東大に乗っ取られ、北里以下、所員全員は辞表

を叩きつけて伝染病研究所を去ることになります。しかし、

北里は北里大学の創立、慶應大学医学部初代学部長就任と

活躍を続け、1931年に78歳で亡くなりました。北里が取

れなかったノーベル医学生理学賞を日本人がようやく受賞

するのは、北里の死後56年経った1987年でした。

 われわれ北海道立衛生研究所では、今年、道内としては

初めて患者さんの傷口から破傷風菌を分離しました。これ

には、北里の開発した嫌気培養法を用いただけでなく、遺

伝子工学など最新の技術も導入しています。ノーベル賞と

は無縁かも知れませんが、先人達の築いた伝統を受け継ぎ

ながら、先端の学術的知見や研究結果を道民の方々に還元

すべく日々努力しているのです。


■木村浩一(きむら こういち) 氏

1985年北大医学部卒業。ボツリヌス毒素の遺伝子解析、大

腸菌O157の無毒化、ピロリ菌の胃癌形成過程の解析、ライ

ム病病原体遺伝子の検出などに取り組んでいる。


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